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狼少年のことを考えて、
数日眠れなかったという話を書く
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第1に
ひとをあいするというのは
『 そのひと真骨頂 』 を理解する、ということだとおもう
真骨頂とは、いうなれば、
究極のアイデンティティとしておく
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第2に
” 狼少年( オオカミ・ショーネン ) ”
というのは固有名詞で、ひとの名前である
年齢、風貌ともに、彼はすでに少年ではないから、
『 狼壮年( オオカミ・ソーネン ) 』 と呼ばれるべきだが、
いかんせん固有名詞なので、
周囲に 『 狼少年 』 と呼ばれて、ハイ なんて応えている
彼は函館近郊大沼に移住してきた関西人である
( ちなみに奥さんは、ユンボという名で関西人である )
とくに関西人的であることが目立ちもしない、
静かで柔和な人格と、
すこしの言葉遣いの端々で
” かろうじて関西人であることがわかる程度 ”
の関西人である
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第3に
関西人というのはひとつの家族である
関西人という巨大コミュニティで、巨大な界隈であり、
イデオロギーである
全員が家族で、たぶん全員でひとを育てる
小さな子供は、子供である以前に、
ひとりの、いち関西人として取り扱われる
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ここしばらくのあいだ、
わたしの周囲に数年付き合いの関西人が大勢あった
- ある大沼の夕暮れ、オサムさんの店で
その大勢の関西人であるところの
老若男女混交、子供3人、大人4人のグループに、
くだんの狼少年が引き合わされた
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このときの彼と彼らとのやりとりに
わたしたち北海道の者は、
なにか芸術でも見るような気分にさせられることになった
、、、というのは、
みんな少なからず感動したからだ
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眼の前で繰り広げられたのは、
鮮やかな丁々発止あるいは
リラックスを含んだ関西式の賑やかなやりとり
、、、見たことのない狼少年
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移住してきた彼は
ずいぶんこの土地をあいして馴染んでいたとおもうが、
この眼の前に繰り広げられている彼の真骨頂を見るに、
その真骨頂たるは!
しからばこのような機会のあるまで、
ふだんはひそかに収納されてしまっているのだろうか?
彼の生まれた環境、
育ったようす、周囲との関係、
父や母、学校、駄菓子屋のお婆々、友達、界隈、
先輩、後輩、川の土手、商店街、となりのひと、エトセトラ!
彼ひとりにまつわる、
書き切ることのできない彼の要素のすべて!
わたしはこれまで、ちっとも彼をしらなかったのだな!
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関西人とつきあうのが、苦手なひとがあるとおもう
なぜならわたしたちには、
ボケとかツッコミとかいう文化がなく、
あきらかな人種の断絶感をかんじたりする
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なんたっていちいちボケたり
いちいちすばやくツッコんだり
おもしろい合いの手を差し挟んだりしなければならないので、
やたらと時間を食うのではないかとおもうし、
さっさと話をスムースに進めたいとおもうし、
さらに言葉も時間も完全に向こうのペースに凌駕されるし、
つねにおもしろくなくてはならないし、
テンポのよい合いの手を打つことに躍起するなんて
面倒くさいじゃないかとおもう
いっぽう、
シンプルに、別段 ” おもしろくもなく ”
自然なペースで、自然な表情で、余分の言葉は入れずに、
ノーマルなテンションをもって、
われわれは過ごしたいのだ、と北海道のひとはおもい、
逆に遠慮したりしどろもどろしたりして、
じつのところ、
無粋にテンポが悪かったりする
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会話によるスキンシップの度合いの違いだが
そんなことが問題なのではなく、
『 そのひと真骨頂 』 と付き合うならば、
どこの誰人であってもよいのだとおもう
もはや関西人というカテゴリは、
すくなくともわたしにとってはこのとき関係なくなった
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わたしたちは、
関西人としてのアイデンティティをもつ、
狼少年の真骨頂をみた
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このことは、
敷衍( フエン )すれば、
われわれはみんな、
たとえばじぶんとしての、
たとえば函館人としての、
たとえば北海道人としての、
そして日本人としての真骨頂があるということだ
日本人であること、ではなくて、
『 日本人の真骨頂 』 まで言わないと気がすまないくらい、
強いニュアンスのものだ
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わたしたちは、それぞれ真骨頂というものを、
いつかどこかで発揮することがあるのだろうか?
真骨頂といえるものが、あるのだろうか?
真骨頂をもって、ひとと付き合うことがあるのだろうか?
わたしたちの全部が、
たがいに理解され、理解しあうことが、あるのだろうか?
とかんがえると、
ことG8サミットの首相たちなどというは、
まさしく互いに真骨頂を発揮しあうべきひとたちなのだと、
つくづくおもって遠くを、見るよね
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